【崇徳上皇-彼を日本国初代大魔王にしたのは-】

平安~室町




 

【崇徳上皇-彼を日本国初代大魔王にしたのは-】

 

 

突然ですが、あなたは

日本三大怨霊をご存知ですか?

もしくは、誰だと思いますか?

(考え中)

はい、いかがでしょうか。

答えは、

『菅原道真・平将門・崇徳上皇』です。

 

もう、知る人ぞ知る、

とてつもないラインナップです。

 

そんなこと言っている

私が祟られそうですね(^_^;)

※こちらの記事もご覧下さい<(_ _)>

↓↓↓↓↓

【天満宮って何?-菅原道真が祀られている理由-】

【平将門の首塚-何故、現在も残っているのか…?-】

 

今回は、天皇家を恨み亡くなった、

崇徳上皇のお話です。

 

 

〇保元の乱は何故起きた?

 

崇徳は第75代天皇でした。

 

しかし、白河上皇が崩御し、

その次に崇徳の父親である鳥羽

院政を始めると、天皇の座は崇徳から

弟の近衛に移されてしまいます。

 

ところが、病弱だった近衛は

亡くなってしまいました。

 

次の天皇は崇徳の息子が有力視

されていたのですが、

その次に天皇になったのは、

崇徳の弟の後白河でした。

 

鳥羽の第一皇子であり、本来であれば、

時期に院政を執る立場だと思われる

崇徳上皇でしたが、

 

ここで、彼の院政の実現は、

粉々に打ち砕かれてしまうのです。

 

しかし、

このタイミングで鳥羽院が崩御し、

崇徳と後白河という有力者同士で

皇位継承問題が勃発することになります。

 

この戦いの勝者は、後白河でした。

 

崇徳は讃岐に流されることになります。

 

 

〇怨霊となる崇徳上皇

 

崇徳は、何度も後白河に手紙を

送りました。

 

しかし、後白河は取り合ってくれません。

 

せめて父(鳥羽)の墓にお参りしたいと

頼んでも、

 

「父(鳥羽)の遺言により無理です。」

と使者を通して伝えられるだけでした。

 

そもそも、鳥羽院が病に倒れた時も、

崇徳だけが見舞いを拒否されました。

 

そして、

鳥羽院の遺言は、次のようなものでした。

 

1.私が死んでも、崇徳を絶対に葬式に

来させるな。

 

2.私の墓ができても、崇徳に

絶対墓参りさせるな。今後一切、崇徳を

我がもとに近付けるな。

 

一体、崇徳が何をしたのでしょうか?

彼は孤独な立場でした。

 

しかし、彼はあきらめません。

次は、手紙と共に、亡き父を思いながら

書いたお経を添え、これを墓に供えて

欲しいとお願いしました。

 

すると!やっと思いが通じました。

今度は文箱が返ってきたのです。

 

ようやく報われた崇徳は喜びました。

 

それを見た周りの人達は、彼を囲み、

宴を開いて喜びを分かち合います。

 

ずっと孤独だった崇徳にとって、

今回の宴はどんなに楽しかった

ことでしょう…。

宴は大いに盛り上がりました。

 

そして、宴も終わりに差し掛かる頃、

ついに、崇徳は後白河から届いた

文箱を開きます。

 

その瞬間!彼は文箱を置いて、

裸足のまま外へ出て行ってしまいました。

 

文箱に入っていたのは、後白河からの

返事の手紙ではありません。

ビリビリに引き裂かれた崇徳の手紙が

入っていたのです。

 

彼は崖の近くまで行くと、

物凄い形相で京都の方角を睨みました。

 

そして、舌を噛みちぎり、その日以降、

爪も髪も伸ばし放題。

その姿はまるで夜叉のようだったと

言われています。

こうして、崇徳は天皇家を恨み、

呪いながら死んでいきました。

 

その後、彼は日本国初代大魔王

なったと伝えられています。

 

 

〇何故、崇徳は嫌われたのか?

 

今までの内容で分かる通り、

崇徳は父親である鳥羽院だけではなく、

弟である後白河からも嫌われていました。

 

何故か恨まれている、もしくは、

全くの赤の他人のようです。

 

一説によりますが、実は、

崇徳と彼らは親子や兄弟同士では

ありませんでした。

 

説明しますと、

鳥羽院には、待賢門院(たいけんもんいん)

という后がいました。

 

彼女は京の誰もが知っているような

美少女で、鳥羽は彼女が大人になるまで

大切にしていました。

 

ところが、ある時彼女は妊娠し、

崇徳を出産したのです。

 

鳥羽:えっ!?(゚Д゚;)

俺、まだ何にもしてないっ💦

 

鳥羽はショックでした。。。_| ̄|○

そして、その犯人は意外な人物でした。

 

犯人は、

なんとっ!

白河上皇だったのです。

 

当然ですが、鳥羽は白河を恨みます。

 

そして、白河が崩御した後、

次は崇徳本人を恨むようになり、

彼を自分から徹底的に遠ざける

ようにしていったのです。

 

いかがでしょうか。

 

崇徳上皇の死後、天変地異が相次ぎ、

更に朝廷は権力を失い、

時代は武士の世になりました。

 

このことから、

崇徳の祟りはかなり強大なものと

恐れられていました。

 

そもそも、崇徳上皇は何も悪く

ありません。

 

人々の驕りから、全く想像していない

次の時代に変わっていくのですね。

 

話は変わりますが、

このページの最初の写真は、

彼を祀る白峯神宮です。

 

崇徳天皇御廟所は、祇園の中心に

ありますよ。

最後に、

1086年 白河院政

♪1086(ちゃんがやろー)白河院政

 

1156年 保元の乱

♪1156(いい語呂)合わせは保元の乱

 

では、今回はこの辺で。

 

 

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このブログを読んで下さる方々に

最大の敬意を込めて。

あなたの生徒が輝く授業を

最大限していきましょう。

ありがとうございました。