【平安時代の授業ネタ③-源頼朝の流刑先と十二単のちょっとした話-】
さて、平安時代は今回で最後にしたいと
思います。
授業は順調に出来ていますか?
新人の方も、ベテランの方も、
上手くいく時もあれば、いかない時も
ありますよね。
「おっ、これは手応えあったな。」と
感じた時があれば、その時の授業を
自分のレパートリーに入れていくことで、
やがて物凄いストックになるはずです。
焦らず着実に成長していきましょう。
コチラの記事もご覧下さい<(_ _)>
↓↓↓↓↓
【平安時代の授業ネタ①-武士が誕生した背景と中尊寺ミイラの真相-】
【平安時代の授業ネタ②-源氏物語の謎と紀貫之の仮名文字に対する思い-】
〇源頼朝の流刑先
平治の乱後、清盛は頼朝を
殺したくて仕方ありませんでした。
しかし、清盛の育て親である
池禅尼(いけのぜんに)の計らいにより、
頼朝は島流しになりました。
清盛はこの時、なるべく酷い場所に
流そうとし、流刑先を自分で調べました。
その結果、
伊豆の蛭ヶ小島(ひるがこじま)
に決定したのです。
これが失敗でした。
なんか、名前だけだと凄そうな
蛭ヶ小島ですが、
実は、温暖でとても良い所でした。
しかも、島ではありません。
ここで、頼朝は20年近く過ごし、
力を蓄えていきます。
(ちなみに、北条政子とはこの間に
結婚しています。)
頼朝にとって何がプラスになったかと
いうと、色々あるかもしれませんが、
個人的には、
地方の武士達の現状を知ることが出来た
ことが大きいと思います。
彼らは、貴族達とは違い、
正式な土地の所有権を認められておらず、
冷遇される立場でした。
頼朝は、彼らの欲するものを知っていた。
守護・地頭などの役職や、封建制度と
いうのは、それを具現化したものです。
だからこそ、新しい時代のリーダーに
なれたのだと思います。
また、この地域一帯を、
後に清盛を裏切る源頼政が治めていた
ということもラッキーでした。
(と言うか、謀略か何かでしょうか…。)
〇十二単って、着てたの?
これを着たいか?
と聞かれると、着たくありませんね。
私的には、スーツやネクタイも、
なんか苦しくて嫌いです。
ちなみに、この十二単は、
十二枚も重ね着していた訳ではない
らしいのですが、
それでも、重量は20kg位は
あったそうです。
これを着てしまったら
トイレが難しいので、手伝ってもらっていた
そうですね。
少し雑で申し訳ないのですが、
一説によると、
上流貴族は十二単を着たくなかったので、
自分よりも下位の者に着せていたとか…。
↑どこかでチラッとその旨の本を読んだ
記憶があるだけですので、定かでは
ありません(^_^;)
コチラの記事もご覧下さい<(_ _)>
↓↓↓↓↓
【平安時代の授業ネタ①-武士が誕生した背景と中尊寺ミイラの真相-】
【平安時代の授業ネタ②-源氏物語の謎と紀貫之の仮名文字に対する思い-】
では、今回はこの辺で。
このブログを読んで下さる方々に
最大の敬意を込めて。
あなたの生徒が輝く授業を
最大限していきましょう。
ありがとうございました。
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