【聖徳太子の授業ネタ2-遣隋使の派遣を熱く語る!-】
どうも、野本です。
聖徳太子の授業ネタ2回目です。
聖徳太子にまつわるエピソードを
ご紹介します。
また、関連記事はコチラです。
<(_ _)><(_ _)><(_ _)>
聖徳太子に関して、自信満々で語れる
ようになります!
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【聖徳太子の授業ネタ1-聖徳太子について熱く語りましょう!-】
〇攻めの外交、遣隋使の派遣
607年、小野妹子を遣隋使として
派遣しました。
・中国の進んだ文化や制度を学ぶため
・中国と対等な外交を目指すため
この部分がテストの記述で出題されます。
「中国と対等な外交」というのは、
日本から隋の皇帝煬帝(ようだい)に
渡した国書がその証拠です。
「日出づる処の天子、書を日没する処の
天子に致す。つつがなきや…」
これに対して、煬帝は激怒したと
言われています。
一体、何故激怒したのでしょうか?
皆さんが皇帝なら、何処で怒りますか?
・
・
・
(考え中)
・
・
・
実は、日本が「天子」を名乗ったことに
激怒したと言われています。
天子というのは、中国の皇帝のみが
名乗って良いものだったのです。
日本が中国の家来としてではなく、
対等な国家としてやっていく、
そんな聖徳太子の意図が見えてきます。
では、何故中国と対等になりたかった
のでしょうか?
それは、新羅が関係してきます。
当時、日本は新羅と仲が悪く、
お互い敵視していました。
しかし、その新羅は中国の家来的存在。
中国と対等になれば、自ずと新羅より
上の国家になれるわけです。
ここまで、聖徳太子は考えていました。
攻めてますね~。まさに攻めの外交。
これ以降の日本は、
「中国にあるものは日本にもあるべき」
といった視点で、国家を整備します。
(平城京などが代表例ですね。)
話は少し飛びますが、
日本初の独自年号である「大化」も、
日本の自立を表す例と言われています。
〇素晴らしき小野妹子
ところで、小野妹子。
帰国後に冠位十二階の最上位を
もらっています。
一体、
小野妹子に何があったのでしょうか?
次の3つから選んで下さい。
それでは、
クイズ、タ~イムボカン!
(確か、アニメでしたよね…。)
①皇帝に大変気に入られたから
②帰国後、様々な分野で活躍したから
③皇帝からの手紙を無くしたから
・
・
・
(考え中)
・
・
・
はい、いかがでしょうか?
実は、答えは、
『③皇帝からの手紙を無くしたから』
でした🎯
どういうことか?
一説によると、
怒った煬帝が日本に書いた手紙は、
とても持ち帰って見せられる内容では
なかったと言われています。
それを察知した小野妹子は、
自ら手紙を処分し、紛失してしまった
と伝えたのです。
一時は流罪を命じられるも、すぐに解除。
高度な政治的判断と高く評価され、
冠位十二階の最上位を与えられました。
う~ん、全てが真実かどうかは
分かりませんが、
聖徳太子にしても、小野妹子にしても、
かなり攻めてますよね~。
この姿勢、見習いたいものです。
最後に、607年 遣隋使の派遣
♪皇帝怒る607(無礼な)手紙
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【聖徳太子の授業ネタ1-聖徳太子について熱く語りましょう!-】
では、今回はこの辺で。
このブログを読んで下さる方々に
最大の敬意を込めて。
あなたの生徒が輝く授業を
最大限していきましょう。
ありがとうございました。
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