【昭和天皇が激怒した日-昭和時代ネタ】
どうも、野本です。
最近、ブログを通して質問されることが
あります。
きちんとしたご質問ならば、
可能な限りお答えしたいと思います。
また、載せれる内容ならば、
社会科講師の相談でシェアさせて下さい。
まあ、「きちんとした」と書いたのは、
スパムも届くわ届くわで💦
何書いているのか分からなかったので、
コピペして翻訳したところ、
バイアグラの宣伝でした(-_-;)
これで、そのサイトにアクセスする人
っているのでしょうか(?_?)
あ💡バイアグラで思い出したのですが、
私、友人が何故か持っていたものを
飲んだことがあります。
で、、、
見事っ!🎉
…効きませんでした( ノД`)
そんな自分の体内の謎は置いとくとして、
今回は、昭和天皇が激怒した日と題し、
お話出来ればと思います。
よろしければお付き合い下さい<(_ _)>
(何の出来事か分かりますか~?)
〇世界恐慌後の日本
世界恐慌の影響を受けた日本。
経済は大打撃を受け、貧困が拡大。
農村にも多大な影響をもたらしました。
陸軍には派閥があり、その1つは、
貧しい家柄の出身が多い皇道派と
呼ばれる派閥です。(↑こうどうは)
彼らは、貧しさがもたらす影響を、
自分達の目で見ています。
「おかしいっ!天皇陛下は我々を
見守って下さっているハズなのに、
何故、こんな状態が続いているのだ!?」
そこで、彼らは悟りました。
「我々と陛下の間には、邪魔な政治家達
が存在する。奴らが陛下と我々の関係を
遮ってしまっているのだ!」
こうして彼らは、
天皇の側近である政治家達を取り除く、
それこそが天皇の為にもなることを信じ、
クーデターに踏み切ったのです。
〇昭和維新
彼らが掲げたのは昭和維新。
このクーデターで殺害されたのは、
高橋是清や斎藤実です。
しかし、今回最も激怒したのは、
何を隠そう昭和天皇でした。
その怒りは本当に凄まじかったようで、
「私みずから近衛師団を率いて反乱軍を
討伐する!」
と言った位だそうです。
その後、反乱軍の鎮圧が決定します。
その反乱軍鎮圧を一任されたのが、
戦争の天才、石原莞爾でした。
(↑石原莞爾のお話については、
をご覧下さい<(_ _)>)
いくら何でも、石原莞爾には勝てない。
そこで、彼らは自決を決意。
しかし、石原莞爾は、
彼らが死のうとする時を見計らって、
人数分の棺桶と死後処理する看護婦を
送り付けました。
ここまでコケにされてしまっては
死ぬに死ねない。
彼らは投降し、軍事法廷で自分達の主張
を訴えることにします。
しかし、その訴えも空しく、
事件の首謀者達は銃殺刑に処されました。
天皇を思っての行動だったはずなのに、
天皇によって殺されるのです。
それを最期でも理解する者は少なく、
多くは「天皇陛下万歳!」と言い残し、
処刑されました。
いかがでしょうか。
ここら辺だと、娘の身売りなどのお話も
あると思いますが、どうやら、
この時期に急増した訳では無いようです。
(教科書には、この時期に急増したように
書かれているんですけどね。)
ちなみに、タイトルの都合上で言うに
言えなかった訳ですが、
今回が何のお話だったかは大丈夫ですね。
============
もちろん二・二六事件です。
============
上手いかどうかは別かも知れませんが、
今までとは違ったスタイルでお話させて
いただきました。
二・二六事件の内容なのに、
最後までその単語が出て来ない。
そんな話の引っ張り方も、時には良い
かも知れませんね。
また、二・二六事件は、
昭和天皇が政治に介入した2つの出来事
の内の1つです。
「二・二六事件」
「ポツダム宣言受諾」
恐らくこの2つの出来事は、
天皇が政治に介入しなければならない程、
事態が急を要したのでしょう。
石原莞爾が事件の首謀者達に対し、
「お前達がやっているのは、
ただの人殺しだ!」と言っているように、
彼らは、天皇の気持ちを考えることが
出来なかったのでしょうか。
ここら辺が、二・二六事件の謎な部分
だと思っています。
では、今回はこの辺で。
このブログを読んで下さる方々に
最大の敬意を込めて。
あなたの生徒が輝く授業を
最大限していきましょう。
ありがとうございました。
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