【日本が誇るべき大英雄-昭和時代ネタ】

昭和時代




 

【日本が誇るべき大英雄-昭和時代ネタ】

 

 

どうも、野本です。

 

すっかり春ですね~🌸

暖かい日🌞が続いています。

 

雪が多い地域に住んでいるので、

歩道が溶けた雪でグチャグチャに…。

 

気温も暖かくなり、新しい気持ちになる。

この時期のそういった部分は好きですが、

道が汚くなるのは嫌いです。

 

また、何かを教える職業の人間にとって、

この時期は寂しい一面もありますよね。

 

だからって、寂しがっていられません。

一生懸命に仕事をされているあなたに、

何度でも良い出会いがあることを心から

祈っています。

 

お互いそうであると良いですね(^▽^)/

 

さて、話は本題に移りますが、

昭和時代の日本が誇るべき大英雄とは、

一体誰のことでしょうか?

ちょっと考えてみて下さい。

(考え中)

はい、いかがでしょうか。

正解はぁ~~、、、と言いますか、

飽くまで個人的な考えなので正解はなく、

 

今回お話したいのは、『杉原千畝』です。

教科書にも載っている人物ですが、

紹介程度でしかありません。

 

また、あまり授業でも取り扱われず、

生徒に聞いてもパッとしない感じでしか

返ってきません。

でも、偉大な功績を残している人物です。

 

今回、少々長くなりましたが、

出来るだけ簡潔に述べました。

よろしければ、参考にして下さい<(_ _)>

 

 

〇杉原千畝について

 

まず、杉原千畝ですが、

滅茶苦茶優秀な外交官でした。

 

英語も達者な上、ロシア語もネイティブ

と変わらない。てか、それ以上。

その上、頭脳も相当に切れる。

 

ソ連とロシア語で交渉し、

その言葉の上手さからソ連人達が唖然。

相手の外交官が恐れる程の人物でした。

 

彼が最初から行きたかったのはモスクワ。

 

遂に、念願だったモスクワに派遣される

ことが決まったのですが、

 

ソ連側が彼を危険人物と判断した為、

拒否されてしまいます。

 

その為、彼は、

日本領事館がまだ無かったリトアニアに

派遣されることになりました。

 

 

〇ユダヤ人達との出会い

 

リトアニアに領事館を建てた杉原千畝。

 

ある朝、領事館の外がうるさく、

気になって外を見てみると、

 

そこには、ボロを纏った

ユダヤ人が60人程いました。

 

当時、ユダヤ人の迫害真っ只中ですから、

命からがらようやく

リトアニアにたどり着いた訳です。

 

ユダヤ人達は杉原に、

「日本行きのビザを発行して欲しい」

と言いました。

 

当時、

日本とドイツは同盟関係にありました。

 

しかし、

ここで彼らにビザを発行しなければ、

彼らは全員殺されてしまう。

 

そう思った杉原はビザの発行を決心し、

自分の意向を外務省に伝えます。

 

すると、当然かも知れませんが、

外務省の反応は「NO!」でした。

 

そこで、杉原は、

独断でビザを発行しました。

 

外務省は彼を止めようとしましたが、

杉原は「それでも発行する」と、

力強く外務省に言い返します。

 

すると、外務省から、

・日本は飽くまで亡命の通過点である

・日本の滞在期間は一週間

という条件が出され、許可されました。

 

しかし、これだと、その後のユダヤ人達

の行き場がありません。

 

そんな時、杉原の友人になっていた

オランダ人領事が、

南米にあるオランダの植民地を、

ユダヤ人達の名目上の行き先にすること

を許可してくれました。

 

杉原は、外務省に向けて、

その条件で書類を作成します。

 

そして、延々と続く事務作業。

24時間、寝る暇も無い中で杉原は、

ユダヤ人達にビザを発行していきます。

 

周囲の協力も得ることが出来、

杉原は、彼を訪ねてくるユダヤ人達を

助けるべく、全力で作業に当たりました。

 

彼は、6000人のユダヤ人達を救った

と言われています。

 

ユダヤ人達は、杉原との別れの際、

「あなたのことを絶対に忘れません。」と

泣いて感謝したそうです。

 

 

〇外務省のしっぺ返し

 

戦後になり、日本に戻った杉原千畝。

 

彼を待っていたのは、外務省からの

辞職の強制でした。

 

その理由は、外務省の意向を無視した

ということですが、

当時の外務省の役人で優秀だったのは、

間違いなく杉原千畝でした。

 

その彼が強制的に辞職に追い込まれます。

敗戦により、日本は非常に貧しい状態。

しかし外務省は、彼をもっと深いどん底

に突き落としたのです。

 

更に、杉原はユダヤ人を逃がす時、

大量の金を受け取っていたというデマが

流されていました。

 

そのデマを流したのは、

杉原がリトアニア領事をやっていた時の

下っ端です。

 

自分達の言うことを聞かない者は、

例えその判断が正しく、

優秀な人物であったとしても切り捨てる。

 

その時の外務省がやったことは、

優秀な杉原に対する嫉妬心、

そこからくるものだと言えるでしょう。

 

 

〇世界で知られる杉原の功績

 

1948年、ユダヤ人達により

イスラエルが建国されました。

 

そしてイスラエルの大使が来日し、

「スギハラにお礼を言いたい」

「センポ スギハラを知りませんか?」

と尋ねてきます。

 

リトアニアで、杉原は自分を

「センポ」と名乗っていました。

「チウネ」が外国の人には発音しづらい、

その為です。

 

外務省は「そんな人間はいない」と返し、

杉原と会わせようとしません。

 

しかし、杉原にどうしても会いたい、

その中の一人の人物が、

彼の行方を徹底的に調べ上げました。

 

そして、長い時を経て、

ようやく杉原との再会を果たせたのです。

 

イスラエルは杉原を大英雄として迎え、

彼の名はユダヤ人達を救った人物として、

「ゴールデンブック」という黄金の本に

記載されています。

 

イスラエルが彼の名を忘れることは、

永遠にありません。

 

いかがでしょうか。

 

当時、誰もユダヤ人達の味方をしない中、

自分の全てを投げうっても彼らを救った、

杉原千畝。

 

そんな彼にしっぺ返しをした外務省。

 

1986年、杉原千畝は86歳で

その生涯を終えます。

 

そして2000年。ようやく外務省は、

杉原千畝の妻、幸子夫人に謝罪しました。

 

なんと言いますか、日本のやることって

やっぱり遅いですよね。

 

戦争が終わってから55年経って、

杉原千畝の功績に気付いたのでしょうか。

 

それに、彼の名誉を回復したからって、

ハイ、そこで問題は終わりだよ~、、、

みたいな感じになってはいませんか。

 

やらないよりはマシかも知れませんが、

ようやくそんなことやっているようでは、

なんか、「国としての尊厳あんのかよ!」

って思ってしまいます。

 

彼の名を、国家に刻み付けたイスラエル。

それに対し、一回謝罪しただけの日本。

 

こういうことからも、日本の歴史認識の

甘さを窺える気がします。

 

では、今回はこの辺で。

 

 

このブログを読んで下さる方々に

最大の敬意を込めて。

あなたの生徒が輝く授業を

最大限していきましょう。

ありがとうございました。