【和宮が愛した人物-江戸時代ネタ】

江戸時代




 

【和宮が愛した人物-江戸時代ネタ】

 

 

公武合体策により、14代将軍徳川家茂

の妻となった和宮。

 

彼女も幕末という時代に翻弄された、

歴史上の人物の一人です。

 

今回は、切なくなる恋愛ネタ。

 

よろしければお付き合い下さい<(_ _)>

 

 

〇徳川家茂に嫁ぐ

 

先程も述べましたが、

公武合体策により、徳川家茂へ嫁ぐこと

になった和宮。

 

彼女は、孝明天皇の妹です。

 

彼女には既に婚約者が存在しています。

名を、有栖川宮熾仁親王。

(ありすがわのみやたるひと)

 

二人の関係を引き裂く上、

京都から江戸へ嫁ぎに行かねばならない。

 

当然、軽々しく帰って来たりなど

出来る訳がありません。

 

それ故、和宮も初めは嫌で嫌で

仕方がありませんでした。

 

幸い、家茂との夫婦関係だけは

上手くいっていたようです。

 

 

〇家茂の死

 

第二次長州征討で、

大阪城にて薩摩・長州と戦っている最中、

元々病弱だった家茂は病で死去します。

 

家茂の最期の言葉は、

「和宮。今度、あなたの故郷に行きます。

あなたの為に、きれいな絹や衣を買って

来ますよ。楽しみにしていて。」でした。

 

この時、

和宮は西陣織を買って来て欲しいと

家茂に伝えています。

 

悲しいことに、帰って来たのは

家茂の遺体と、和宮との約束を果たす為、

彼が京都で買った西陣織だったのです。

 

〈和宮がこの時に詠んだ歌〉

空蝉(うつせみ)の 唐(から)織り衣 

なにかせむ 綾も錦も 君ありてこそ

[あなたが亡くなってしまった今、

この西陣織が一体、何になりましょうか。

どんなに美しい衣も、

あなたがいらっしゃればこそなのに。] 

 

和宮の思いが伝わってくる歌ですね。

 

彼女はその後、尼になりました。

(名は静寛院宮(=せいかんいんのみや))

 

 

〇彼女が愛した男性は…

 

第二次世界大戦後、寛永寺で墓の調査が

行われました。

 

和宮の墓も開けているのですが、

調査していた歴史学者はビックリ!!

 

彼女の白骨死体は大切そうに、

一枚の男の写真を抱きしめていたのです。

 

しかし、写真は原板だった為に感光し、

写っていた男の姿はスゥッと消えました。

 

きっと、写真の男が、

和宮が本当に愛していた人なのでしょう。

 

徳川家茂か、それとも有栖川宮熾仁か…。

 

歴史学者の証言では、

男は狩衣に立烏帽子姿だったそうです。

 

寛永寺は将軍家の墓なので、

当然、写真の男は家茂と思いたいですが、

将軍がそのような姿になることは

殆ど無いと言って良いでしょう。

(家茂の写真は現存していません。)

 

対して、

有栖川宮熾仁の写真は残っていて、

大体が狩衣に立烏帽子姿。

 

つまり、

状況から考えると徳川家茂。

姿から考えると有栖川宮熾仁。

 

さあ、あなたはどちらだと思いますか?

 

いかがでしょうか。

 

補足ですが、

写真の男が徳川家茂ならば、

結婚は一応良かったと言えそうです。

 

しかし、有栖川宮熾仁だったならば、

家茂に嫁いだことは不幸以外の何物

でもなかったと言えます。

 

和宮が、死後の世界で最愛の男性と再会

出来ていることを、願って止みません。

 

では、今回はこの辺で。

 

 

このブログを読んで下さる方々に

最大の敬意を込めて。

あなたの生徒が輝く授業を

最大限していきましょう。

ありがとうございました。