【鎌倉時代の泣ける人物-後鳥羽上皇、式子内親王】

平安~室町




 

【鎌倉時代の泣ける人物-後鳥羽上皇、式子内親王】

 

 

どうも、野本です。

 

2018年8月1日現在、

もう、メッチャ暑いですι(´Д`υ)アツィー

 

水分補給は必須事項ですね。

 

しかも、台風12号、

ナンじゃこりゃぁーっΣ( ̄□ ̄|||)

って感じの動きです。

 

台風がこんな動きしたことって、

初めて見ます。

(単に、私が知らないだけか…。)

 

少し意識して見ると、

ちょっとずつ気候も変わってきている

ような気がします。

 

それと同じように、

仕事の上達っていうのも、

この少しの意識で変わってきますよね。

 

少しの意識の差が、次第に大きな違い

となっていく。

行動の積み重ねを自然にしていけるよう

でありたいと思います。

 

さて、今回はタイトル通り、

後鳥羽上皇式子内親王

の二名をご紹介致します。

 

 

〇後鳥羽上皇の怒り

 

後鳥羽上皇は、源氏を恨んでいました。

 

何故か?

源氏は後鳥羽に対し、絶対に許されない

罪を犯してしまったのです。

 

それは、

 

草薙剣を失くしたことです。。。_| ̄|○

詳細は、

【頼朝と義経の不和-鎌倉時代ネタ】

をご覧下さい。

 

後鳥羽は、三種の神器が揃わないまま

皇位を継承。

 

「半帝」という不名誉な名が、

陰で付けられていました。

 

後鳥羽自身の剣に対する執着は凄まじく、

庭に自分専用の鍛冶場を設けた位です。

 

なんとっ!趣味が刀剣制作なんですね。

余程、半端な形で皇位継承したことを

根に思っているのでしょう。

 

最終的には、政権奪取の為に挙兵します。

 

 

〇式子内親王が愛した人

 

新古今和歌集の中に、

式子内親王(しょくしないしんのう)

の歌が載っていますね。

 

国語でも勉強する人はいると思います。

 

玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらへば

忍ぶることの 弱りもぞする

[私の命よ。絶えてしまうというなら

絶えてしまえ。生き長らえていると、

これ以上、恋心が秘めきれなくなって

しまうといけないから。]

 

基本的に、当時の高貴な身分の女性は、

自由な恋愛など許されていません。

 

特に、内親王の結婚は厳しく制限されて

いました。

 

その苦しい思いを詠んだのが、この歌。

 

1201年、式子内親王は病のため

亡くなりました。

 

ずっと愛する人がいながらも、

その人と結ばれることなく…。

 

ところで、式子内親王が愛した男性って、

一体誰なのでしょう?

 

実は、新古今和歌集の撰者の一人、

藤原定家(ていか)です。

 

二人は相思相愛の関係だったと

言われています。

 

藤原定家の日記には、式子内親王が

よく登場し、病状が悪化した時には、

何度も見舞いに訪れていることが

綴られています。

 

式子内親王の一生は、

決して幸せなものではありませんでした。

 

だから、藤原定家は、

新古今和歌集の中にこの歌を入れた

のではないでしょうか。

 

彼女が生きたせめてもの証として…。

 

いかがでしょうか。

 

「どこが泣かせるの?」とか言われても、

責任は負いません<(_ _)>

 

話は変わりますが、

短歌って、その歌を詠んだ背景を

分かっていると、面白いですよね。

 

式子内親王のお話、

生徒は意外と共感してくれました。

 

中には、感情的に愛を語る私を見て、

笑っている生徒もいましたが…。

(。´・ω・)?

 

では、今回はこの辺で。

 

 

このブログを読んで下さる方々に

最大の敬意を込めて。

あなたの生徒が輝く授業を

最大限していきましょう。

ありがとうございました。