【日本初の公害問題-明治時代ネタ】
ちょっと前、用事があったので、
日帰りで横浜に行って来ました。
用事を済ませ、多摩プラーザという場所
までタクシーで行こうとしたところ、、、
ようやくタクシーを発見\(^o^)/
しかし、止まったのは道路の向かい側。
車が混んでいて、中々行けません。
困っていると、タクシーはそのまま
行ってしまいました…。
(・・?
Uターンして来てくれるのかな?
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(1分経過) 取り合えず待とう。
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(3分経過) あれ!?
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(5分経過) 中々来ないぞ?
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(10分経過)
あっ!あのタクシーだ。
やっぱり戻って来てくれたんだ(´;ω;`)
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他のお客乗ってるんですけど…(-_-;)
どうも、野本です。
明治時代のネタに関しては、
大体ここまでかなと思っています。
落としどころの無い身の上話は
置いといて、
早速本題に入りましょー!
今回は、
足尾銅山鉱毒事件に深く関わった、
田中正造のお話しです。
〇田中正造の直訴
日本初の公害問題と言われる、
足尾銅山鉱毒事件。
鉱山開発により、鉱毒が発生。
空気や川の水を汚染し、人々の生活に
多大な被害をもたらしました。
この状況の中、
天皇に直訴しようとした人物が田中正造、
元衆議院議員です。
途中で警官に取り押さえられて、
直訴には失敗しましたが、
彼が起こした運動は、
多くの人々に知れ渡りました。
中でも、田中正造の直訴状は、
幸徳秋水が手掛けたものであったことが
有名です。
幸徳秋水:天皇を認めていない俺が
天皇に直訴状なんか書けるか!
田中正造:民、百姓の為に、格調の
高い文章で直訴したいんだ。
君しかいない!
そんなやり取りを経て、
完成した直訴状なんですね。
〇直訴失敗のその後
天皇への直訴は失敗しましたが、
鉱毒事件の対策として、
汚染された渡良瀬川の近くにある
谷中村(やなかむら)を廃村にし、
遊水地を作る計画が立てられました。
谷中村は、田中正造が住んでいる場所。
この政府の対応は、
公害運動を潰す為だと言われました。
そして、谷中村の人々からすれば、
とんでもないお話です。
田中正造を恨む人も現れました。
田中正造が運動を起こしたばかりに、
村が潰される訳ですから…。
彼は、谷中村が取り壊される最後まで、
その場にい続け抵抗しました。
いかがでしょうか。
何故、政府の対応は、こんなにも
おざなりになったのでしょうか。
その背景には日清・日露戦争があります。
戦争でそれどころではなかったのですね。
もし、田中正造の訴えを政府が直視し、
誠実な対応をとっていれば、
日本の公害対策はこの時点で進んでいた
かも知れません。
そうなっていたら、水俣病などの
悲惨な公害病も起こっていなかった。
その可能性がありますね。
話は変わりますが、
田中正造の直訴状を手掛けたのは、
幸徳秋水。
その幸徳秋水の師匠は、中江兆民。
中江兆民は、
坂本龍馬のタバコ買いに行く係。
ここら辺の人物の繋がりって、
なんだか物凄いですよね。
その他にも、
小村寿太郎の師匠は陸奥宗光。
陸奥宗光は海援隊として、
坂本龍馬と行動を共にしていました。
(あれ!?どちらも坂本龍馬が起点に
なっていますね。やっぱり違うわ~。)
人との繋がりが大きなドラマを生み、
時代を先へと進ませてきたのですね。
では、今回はこの辺で。
このブログを読んで下さる方々に
最大の敬意を込めて。
あなたの生徒が輝く授業を
最大限していきましょう。
ありがとうございました。
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