【天下の悪法、生類憐みの令】

江戸時代




 

【天下の悪法、生類憐みの令】

 

 

今回は天下の悪法と呼ばれた、

徳川綱吉の生類憐みの令についてです。

 

特に犬を大事にしたことから、

徳川綱吉は犬公方と呼ばれました。

 

跡継ぎに困る綱吉。

 

それは、

前世に犬をイジメていたからだと、

僧の隆光(りゅうこう)に言われたのです。

 

現在の東京の中野に、体育館4、5個分

の大きさの犬小屋が建てられました。

 

では、今回も

よろしければお付き合い下さい<(_ _)>

 

 

〇世に与えた影響

 

この法令が出された後の世は、

一体どのような感じだったのでしょうか。

 

こんな話があります。

野犬の群れから弟を救い出そうとし、

犬を棒で叩いて追い払った子供に、

 

「今、野犬を追い払ったのは誰だ!」と、

役人がやって来ました。

 

「褒められるのかな?」と、

子供が手を挙げた瞬間、

役人はその子の腕を切り落としました。

 

また、こんな話もあります。

「プ~~ン」と蚊が飛んでいて、

その蚊が、綱吉の横にいる

太刀持ちの少年の頬に止まりました。

 

少年は蚊を叩いて殺してしまいますが、

 

それを見ていた綱吉は、

少年に切腹を命じたそうです。

 

しかし、

あまりに厳し過ぎると感じていた老中が、

少年に切腹はしないよう命じており、

 

後になって切腹はやり過ぎたと気付いた

綱吉が、少年のことを老中に聞くと、

 

老中は、「あ、忘れておりました。」と

はぐらかすことで事なきを得ました。

 

 

〇綱吉は守っていたのか

 

この生類憐みの令。

綱吉自身はきちんと順守していた

のでしょうか?

 

有名なエピソードがあります。

 

ある日、

カラスが「カァーカァー」と飛んで来て、

綱吉の頭にフンを落としました。

 

綱吉の隣にいた槍や弓の名手達が、

そのカラスを殺そうとしたところ、

 

「やめろっ!生類憐みの令だ!」と、

綱吉が止めに入ります。

 

しかし、綱吉も腹が立っていたので、

槍の名手に命じて、

カラスをトリモチで捕まえさせました。

 

そのカラス、どうなったのでしょうか?

 

実は、そのカラスを相手に、

幕府の最高司法機関である評定所で

裁判が行われることになりました。

 

裁判の記録は残っており、

罪人名に「カラス」と書かれています。

 

「鼠小僧」のようなあだ名であれば

格好良い気がしますが、

 

裁判の記録には「一羽」と書かれ、

やっぱりカラスなんだと分かります。

 

老中と三奉行が集まり、

カラスをどうするか話し合いました。

 

そして決まったのは、

八丈島への島流しです。

 

記録には、

「カラス一羽、捕縛を解き放つと、

ただちに江戸へ向かって逃走。」

 

こんな感じで書かれています。

 

 

〇6代家宣により廃止

 

少し間抜けな感じの記録が残っている、

生類憐みの令。

 

一番性質が悪かったのは、

綱吉は亡くなる前に、この法令の続行を

6代家宣に命じていたことです。

 

家宣はこれを承諾しましたが、

綱吉が亡くなった後、

直ぐに生類憐みの令を廃止します。

 

えっ!?家宣って冷血…。

って思うかもしれませんが、

 

どうやら、生類憐みの令の廃止後、

家宣は綱吉の墓前で

こう言っているそうです。

 

「生類憐みの令、私自身は続行します。

ただ、民達は勘弁してあげて下さい。」

 

流石は将軍、器が違いますね。

(新井白石の教育の賜物でしょうか。)

 

いかがでしょうか。

 

記録がどこまで本当かは分かりませんが、

カラス相手に裁判したのは面白いですね。

 

ただ、間抜けな話だけではありません。

 

生類憐みの令が出された後、

辻斬りなどの件数が減ったそうです。

 

綱吉はこういった世の悪習を正す為、

この法令を出したのかも知れませんね。

 

では、今回はこの辺で。

 

 

このブログを読んで下さる方々に

最大の敬意を込めて。

あなたの生徒が輝く授業を

最大限していきましょう。

ありがとうございました。