【室町時代の授業ネタ-後醍醐天皇と河原者について】
どうも、野本です。
この間、公園でやっているお盆祭りの前
を通り過ぎました。
子供達が多く、大人もいて、活気が
あったのですが…、
ちょっとビックリ。
あれ!?(゚Д゚;)
子供達が誰も踊っていねぇ!!
まぁ、踊っても、あんまり楽しくない
かも知れませんけどね。
(お菓子貰えなくなったんですかねぇ?
私は完全それ目当てで踊りましたが…)
ただ、出来るなら、大人も含めて
皆で踊って欲しいと願う、
そんなオジサンがここにいました。
偉そうなことを言うつもりは
全く無いのですが、
「これで良いのか?」と、
ちょっと疑問に思いました。
ってことで、全く関係ない話は
さておき、
〇逞しい後醍醐天皇
ここに関しては、
どうやって北朝と南朝に分かれたか、
きちんと説明してますか?って話です。
後醍醐天皇の敗戦については、
をご覧下さい。
さて、
足利尊氏に負けてしまった後醍醐天皇。
足利尊氏が立てた新天皇に、
皇位を継承させなければなりません。
ところが!後醍醐天皇は、
三種の神器の偽物を渡し、
自身は奈良の吉野に逃げていきます。
本物を持つ自分こそ正当な天皇で、
自らのいる場所が朝廷だという訳です。
ここに、京都の北朝、奈良の南朝が
出来上がりました。
二度の討幕失敗にも諦めることなく、
新政権を立てた後醍醐天皇。
亡くなった後ではなく、諡号(しごう)を
勝手につけて名乗った後醍醐天皇。
う~ん、
中々、ユニークな人物ですね。
〇河原者と穢れ(けがれ)思想
彼らは、屠畜(とちく)や皮革加工を
行っていた人々で、
その作業には水のある河原が適し、
河原に住居を持つようになったことから、
そう呼ばれました。
彼らは異質な者として差別を受けました。
当時、と言うか、現在も残っていますが、
日本人の「穢れ思想」が元となります。
天変地異や、その他の災厄などは、
穢れがもたらすものと考えられ、
その穢れの一つである死穢(しえ)に
触れている河原者は、
一般の人々からすると、異質な者として
捉えられたようです。
武士が貴族から差別されていた原因も、
一つは穢れ思想によるものです。
誰かが使った、箸や茶わん。
父親が入った後の風呂(笑)
こういった物に、あなたは
何か違和感を感じませんか?
(感じない子は、えぇ子こやわ~(´;ω;`))
人の使った物に違和感を感じるのも、
穢れを恐れる我々日本人の思想によるもの
なのです。
しかし、この河原者から、
優れた技術を持つ者が多く誕生し、
日本文化に大きな発展をもたらしました。
龍安寺の庭園などが有名ですね。
(最初の写真がそうです。)
最期に、
1392年 南北朝の合一(+朝鮮国)
♪1392(いざ、くに)は一つ
では、今回はこの辺で。
このブログを読んで下さる方々に
最大の敬意を込めて。
あなたの生徒が輝く授業を
最大限していきましょう。
ありがとうございました。
最近のコメント