【植民地政策の広まり-近代のネタ】
突然ですが、この画像をご覧下さい。
これ、何かご存知ですか?
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(考え中)
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はい、いかがでしょうか。
この時代を勉強するに当たって、
初めて出てくるものですが、
実際はかなり古い歴史を持っています。
正解はぁ~~、
ジャジャン♪『ケシの実』です。
簡単に言えば、
アヘンの原料となる植物です。
この実から採取される樹脂に麻薬成分が
含まれているそうです。
意外と身近な所でケシは使われています。
例えば、アンパンの上の白い粒々は
ケシの種子ですし、七味唐辛子の中にも
入っています。
(と言っても、どうやら麻薬成分を
含まない品種のもののようです。)
さて、今回は植民地政策についての
お話をさせていただければと思います。
〇何故、植民地政策?
基本中の基本である内容ですね。
・原料を安く手に入れる供給地にする為
・工業製品を売る市場にする為
産業革命後、製品を大量生産することが
可能となりましたが、
無尽蔵に利益を追求するスタイルは、
国境を越えてしまうまでになりました。
しかも白人にとって、アジアやアフリカ
の人々は同じ人権を持っている存在では
ありませんから、
植民地として支配することで、
まさに、やりたい放題出来た訳ですね。
〇三角貿易
当時、イギリスでは中国の茶が大ブーム。
更に、中国で製造されている陶磁器も、
もの凄く売れていました。
しかし、銀で買い続けたイギリスは、
とうとう銀不足を招いてしまいます。
いわゆる、貿易赤字と呼ばれる状態です。
そこで、イギリスが考えたのが、
「三角貿易」というものでした。
イギリスと中国との貿易にインドを入れ、
インドには大量のアヘンを製造させて、
中国に密輸しました。
こうすることで、インドに大量の銀が
中国から流れてきます。
そこで、イギリスはインドに対して
大量の綿織物を輸出すると、あら不思議!
なんと、イギリスに銀が戻って来ます。
中国人を人間だと思っていたら、
絶対にこんな真似は出来ませんね(-_-;)
ちなみに、当時のインドには、
ガンジス川を中心に直線800km程の
アヘン農場がありました。
100万人近くのインドの農奴が
働いていたそうです。
後に、西のボンベイ周辺にも、
同規模のアヘン農場がつくられました。
〇アヘン戦争へ
今度は逆に、中国で銀不足を招きます。
しかも、大量のアヘン中毒者という
とんでもないオマケ付きです。
中国はアヘンの売買を禁止。
アヘン業者達を処刑し、強硬な姿勢で
密輸されていたアヘンを処分します。
このことにイギリスは猛反発。
中国に艦隊を派遣し、アヘン戦争が勃発
してしまいました。
普通に考えると、この頃のイギリスって、
殆どヤクザと変わりません。
また、教科書では、
アヘン戦争勃発→中国の敗北 と、
とても簡単にしか書かれていませんが、
実際には、
中国はかなりの抵抗を見せています。
活躍したのは林則徐(りんそくじょ)。
あの超難関である官僚登用試験、科挙を
一発でパスした人物です。
しかし、戦局は一気に傾いてしまいます。
イギリス艦隊が、北京近くの天津まで
やって来た途端、
戦ったことが無く、
平和ボケした皇帝とその御付き達が、
イギリスの脅しに簡単に屈しました。
実際であれば、イギリスは
補給路が伸び切っている状態なので、
全力で叩けば戦争に勝利出来る可能性が
あったにも関わらずです。
林則徐は戦争の責任を取らされ、
交戦中にも関わらず、
現在のウズベキスタンへ左遷されます。
林則徐と共に戦っていた兵隊達は驚き、
ついでにイギリスも驚きました(笑)
林則徐がいる間は、戦争に勝てないと
思っていましたからね。
これで中国軍は総崩れ。
イギリスによる殺戮が繰り広げられます。
その悲惨な光景は、
白い川が血で赤い川になったと
言われる程でした。
こうして、敗北した中国は、
イギリスとの間に世界で初の不平等条約、
南京条約を結びました。
いかがでしょうか。
このアヘン戦争により、イギリスは
植民地政策の味を占めました。
この後、外国勢力は日本にもやって来る
ことになります。
また、藩の命令で上海に渡り、
中国の状況を見た高杉晋作は、
外国の侵略に備え、帰国後に奇兵隊を
つくっています。
最後に
1840~1842年 アヘン戦争
1841~1843年 天保の改革
※横の繋がりを意識しましょう。
では、今回はこの辺で。
このブログを読んで下さる方々に
最大の敬意を込めて。
あなたの生徒が輝く授業を
最大限していきましょう。
ありがとうございました。
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