【田沼の政治≠改革の訳-江戸時代ネタ】
突然ですが、皆さんは政治家です。
世の中が不景気と言われて久しいですが、
この不景気を解消する為、
皆さんはどのような対処をしますか?
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(考え中)
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はい、いかがでしょうか。
すいません、生徒に聞いても答えが
出て来なさそうですね。
正解に関しては、
成功事例は一つしかないと思います。
『需要を創出する』ことですね。
ざっくりと分かり易く言い換えれば、
『お金を使わせる』といった感じです。
当時、これを行ったのが田沼意次でした。
しかし、ここで疑問が生じます。
〇何故、田沼の政治は改革と呼ばれない?
生徒は悲しい程何も言ってくれませんが、
これ、疑問に思いませんか?
答えは簡単なんですけどね。
当時の思想が元なのですが、
「貴穀賤金」が根付いていた世なので、
田沼の政治は受け入れられませんでした。
なお、貴穀賤金については、
【身分制度の授業-江戸時代ネタ】でも
触れていますので、ご覧下さい<(_ _)>
田沼は、商業で得た利益で財政の再建を
図った人物です。
株仲間の結成を奨励し、税を徴収する。
貿易を制限するのではなく、拡大する。
こういったところが、
改革と呼ばれた他の三人とは違いますね。
しかし、
賄賂政治が横行し、その元をつくった
悪い政治家だと言われています。
賄賂は悪いことではありますが、
日本には贈り物をする風習があります。
お中元なんかがそうですよね。
当時だってそういうことがある訳です。
〇何故、田沼だけが悪者扱いされるの?
賄賂政治家=田沼意次のようなイメージ。
しかし、田沼意次は、
実はかなり良い人だったらしいです。
では何故、田沼が悪者扱いされている
のでしょうか?
これも簡単な話で、
田沼意次のことを恨んでいる人物がいる
からです。
その人物こそが、
次の改革者、松平定信です。
松平定信は、徳川吉宗の孫に当たります。
元々将軍になれる家柄でした。
しかし、
田沼意次に対しての批判が酷過ぎて
存在を疎まれてしまい、その結果、
将軍になれない家柄(白河藩)の養子に
出されてしまいました。
この頃、歴史書を掌握していたのは
松平定信です。
まあ、
田沼のことはボロクソに書きますよね。
実際には松平定信自身が、
田沼意次に賄賂を贈ったという記録も
残っているようですが…。
田沼がもう少し後の世に生まれていたら、
偉大な政治家と称されたかも知れません。
生まれた時代が早過ぎたようです。
最後に、
1772年 田沼意次が老中に
♪田沼は1772
(じゅうなんなに)んげんです
1787年 松平定信の寛政の改革
♪松平さんは厳しい1787
(ひとなんやな~)
では、今回はこの辺で。
このブログを読んで下さる方々に
最大の敬意を込めて。
あなたの生徒が輝く授業を
最大限していきましょう。
ありがとうございました。
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