【歴史の授業で語られるべき、日本の偉人を大公開!!】

歴史番外編




 

【歴史の授業で語られるべき、日本の偉人を大公開!!】

 

 

どうも、野本です。

 

今回は、メルマガで投稿した記事の

加筆修正したものを投稿します。

 

歴史の教科書に載るべき日本の偉人

を紹介した記事です。

 

よろしければ、お付き合い下さい<(_ _)>

 

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〇日英同盟の立役者をご存知ですか?

 

あなたは、1902年の日英同盟の

立役者をご存知ですか?

 

というよりも先ずは、

日英同盟のきっかけをご存知ですか?

 

それなら「義和団事件」と答える

ことが出来るかも知れません。

出典「ウィキメディアコモンズ」

 

では、この義和団事件で何があった

のでしょうか?

 

ここに、偉大な功績を残した日本人が

存在するのです。

 

あなたは、柴五郎(しばごろう)を

ご存知でしょうか?

出典「ウィキメディアコモンズ」

 

当時、世界で賞賛された日本人です。

 

義和団事件のお話になりますが、、、

 

線路が爆破され、義和団を鎮圧する援軍

が見込めない中、

 

米・英・蘭・英印(インド)、そして日本

がイギリス公使館に立てこもりました。

 

その数は5000人。

 

籠城戦になるわけですが、

各国の兵隊は恐怖で思うような動きが

出来ませんでした。

 

しかし、

柴五郎率いる日本人は違いました。

 

彼の的確な指示のもと、日本人は勇ましく戦ったのです。

 

そして、

55日間も持ちこたえることが出来、

その間に援軍が到着し、義和団を鎮圧。

出典「ウィキメディアコモンズ」

 

北京籠城総指揮官マクドナルドは、

「北京籠城の功績は特に勇敢な日本人に帰すべき。」

と語っています。

 

これをきっかけに、

日本兵の素晴らしさが欧米各国へと

伝わっていきました。

 

日英同盟は、

イギリスが日本を利用しようとした、

そんなニュアンスは否めないかも

知れません。

 

しかし、イギリスをそう思わせたのは、

紛れもなく先人たち日本兵が

強く素晴らしかったからなのです。

 

柴五郎。

義和団事件のところでお話出来ると

良いですね^^

 

 

〇語られるべき、坂東俘虜収容所とは…

 

あなたは、徳島県鳴門市の

坂東俘虜収容所をご存知

でしょうか?

(ばんどうふりょしゅうようじょ)

 

この場所もまた、

世界に語られるべき場所なのです、、、

 

この場所は、約1000人の

第一次世界大戦のドイツ人捕虜を、

2年10カ月ほど収容していました。

 

しかし、その収容の仕方がとんでもなく、

世界が絶賛しました。

 

松江豊寿(とよひさ)所長は、

出典「ウィキメディアコモンズ」

 

捕虜の自主活動を奨励し、非常に人道的に扱ったのです。

 

地域の日本人たちとも交流があり、

捕虜たちは日本に家具、パン、楽器技術

を伝えました。

 

また、

日本で初めてベートーベンの交響曲第九

が演奏されたのは、

何を隠そうこの収容所です。

 

ドイツ人捕虜たちが演奏しました。

こんなことは、

歴史上に類を見ないことです。

 

そして1920年、

ヴェルサイユ条約の調印とともに、

捕虜の本国送還が行われたのですが、

170人が日本に残ったそうです。

 

いかがでしょうか。

人を人として認識する。

これは、簡単そうで難しいことです。

 

何より、同じ民族(人種)でなければ、

なおさら難しいでしょう。

 

しかし、私たちのご先祖は違いました。

違う民族(人種)であっても、

人としてきちんと接しました。

 

捕虜との関係ではあるかも知れませんが、

それでも最大限の敬意を払いました。

 

私たちのご先祖は、

そういう方々なのです。

 

 

〇ミャンマー人が知る日本人

 

突然ですが、

「ボ・モージョ(雷帝)を知っているか?」

 

ミャンマーでこの人を知らないと、

日本人は怒られてしまいます、、、

 

なんか、スペインとかそこら辺の人の

名前っぽいですが、

日本人のことを指しています。

 

ミャンマーで活躍した人物というと、

鈴木敬司大佐」が有名です。

出典「ウィキメディアコモンズ」

 

彼が「ボ・モージョ」と名乗りました。

 

ミャンマー(当時ビルマ)の伝承にある、

ボ・モージョを名乗りビルマを開放した

王子の話が由来です。

 

鈴木大佐は陸軍中野学校の出身、

つまりスパイです。

 

日本軍の特務機関「南機関」の

機関長でした。

 

彼は、アウンサン・スー・チーの父、

アウンサン・オンサン

深く関わりました。

出典「ウィキメディアコモンズ」

 

アウンサン・オンサンを日本で訓練させ、

ビルマの独立義勇軍を結成。

その後イギリスを追い払っています。

 

しかし、日本の敗戦が濃厚になると、

アウンサン・オンサンは日本を裏切る

のですが、

 

鈴木大佐はこれを察していました。

 

彼は、アウンサン・オンサンを呼び、

こう言いました。

 

「お前はもう裏切るんだろう。

だとしても、私がビルマにいる間はやめてくれ!

貴様が裏切るのであれば、躊躇なくお前をたたき切る!」

 

この言葉にアウンサン・オンサンは、

しばらくうなだれていたそうです。

 

アウンサン・オンサンも、

日本を裏切りたくはなかったのでしょう。

 

しかし、このままでいてしまっては、

多くのビルマの人々が行き場を失うこと

になるのです。

 

彼の裏切りは、

ある意味で仕方ないものでした。

 

鈴木大佐が日本に呼び戻されると、

アウンサン・オンサンは方針を転換。

日本からイギリスに寝返りました。

 

しかし、1981年、

ミャンマー政府は亡き鈴木大佐に対し、

国家の最高勲章を授与しています。

 

決して、全てを忘れてしまった

わけではないのです。

 

いかがでしょうか。

 

鈴木大佐とアウンサン・オンサン。

この二人の関係は、

人を惹き付ける部分がありますね。

 

お互いの立場上、

どうしても離れることしかできなかった。

 

そこに友情が芽生えていたのだとしても。

 

それでも、ミャンマーは鈴木大佐を

決して忘れてはいませんでした。

 

日本が忘れてしまっていることに

私は少しおかしさを感じますが、

あなたはどう思いますか?

 

 

〇士魂戦車大隊をご存知ですか?

 

あなたは、士魂戦車大隊

をご存知ですか?(士魂=しこん)

 

恐らく、

かなりマニアックな方でない限り、

ご存知ないと思います。

 

現在の北海道恵庭市にある、

陸上自衛隊第11旅団の機甲科部隊の

愛称です。

 

11 → 十一 → 士 ともじったのですが、

もちろん、その由来はあります。

 

戦前に活躍した、

戦車第11連隊(士魂部隊)

からその名がとられています。

 

彼らは1945年8月18日、

占守島(しむしゅとう)にやってきたソ連軍と戦いました。

 

戦争が終わり、

撤収命令が出ているはずなのに、

何故戦ったのか?

 

それは、ソ連軍が攻めてくると、

その場にいる民間の日本人が

何をされるか分からないからです。

 

たいてい、強姦や虐殺が起きます。

 

それを知っていたから、

命令を無視し、彼らは戦いました。

 

戦争は降伏すれば許してくれる、

そういう甘いものではないのです。

 

戦車第11連隊の有名な人物に、

池田末男(すえお)大佐がいます。

出典「ウィキメディアコモンズ」

 

彼が先陣を切り、

「白虎隊たらんとする者は手を挙げよ。」

と戦う同士を募りました。

 

すると、全員が手を挙げたそうです。

彼らは勇敢に戦いました。

 

中でも、池田大佐は

命令に背いてまで戦う訳ですから、

 

日本の象徴である軍服を脱ぎ、

上半身裸で戦ったといいます。

 

彼らの奮戦は、

日本以上の損害をソ連軍に与えました。

 

己の命を賭して、

周りの人々を助けるために戦ったのです。

 

何だかんだで同じようなことを

述べてしまいますが、

 

こういった先人たちがいて、

現在の私たちがいます。

 

戦争を美化する訳ではありませんが、

先人たちのこの精神力は、一体どこから湧いてきていたのでしょうか?

 

きっと、「大切なものの為に。」

そういった感情からなのだと思います。

 

私もそのような精神をもって、

日々を生きたいと感じています。

 

戦車第11連隊(士魂部隊)。

もし、機会があったら語ってください^^

 

 

〇おわりに

 

いかがでしょうか。

 

掻い摘んでの説明かも知れませんが、

 

どの方も教科書に載るべき、

日本の偉人と呼ぶに相応しい人物

なのではないでしょうか?

 

世界に対し誇るべき偉人が

日本にも沢山存在するのだということを、

子ども達に教えてあげて下さい^^

 

では、今回はこの辺で。

 

 

このブログを読んで下さる方々に

最大の敬意を込めて。

あなたの生徒が輝く授業を

最大限していきましょう。

ありがとうございました。