【偉大?卑小?乃木希典-明治時代ネタ】
日露戦争の要所となった二〇三高地。
ここの土はある色をしています。
それは黒色です(と言われています。)。
では、何故黒いかご存知ですか?、、、
どうも、野本です。
今回から日露戦争のお話になります。
結構ヘビーな所ですが、
何とかやり切ろうと思います。
数回に渡りますが、
よろしければお付き合い下さい<(_ _)>
〇有名な二〇三高地
んで、もう一度繰り返します。
二〇三高地の土の色は何故黒いのか、
ご存知ですか?
二〇三高地の土の色が黒い理由…、
それは、
『人の血で染まっているから』でした。
グロイですね~。。。_| ̄|○
と言いましても、
御先祖達が命を賭して戦ったのです。
それを笑うつもりはありません。
この二〇三高地こそが、
日露戦争の勝敗を左右する戦地でした。
何故ならば、この二〇三高地には
ロシア軍の要塞が既に建築されていて、
そこから見下ろせる場所、
即ち旅順港にロシアの東洋艦隊が
構えていたのです。
旅順港は二〇三高地の大砲が届く距離。
つまり、
東洋艦隊とまともに対決するには、
まず二〇三高地を落とす必要があります。
更に、のろのろしていると、
世界最強と呼ばれるバルチック艦隊が
戦地に到着してしまいます。
こうなっては日本の勝ち目はありません。
しかし、この戦いの勝利があるからこそ、
現在の私達があるのです。
もし、日露戦争に敗北していたら、
現在の私達の朝食はボルシチでした。
(ボルシチはロシアの定番料理です。)
話を戻しますが、
二〇三高地の黒色の土は、私達の御先祖
が命を懸けて戦った証なのです。
そして、戦いを勝利に導いた人物こそ、
乃木希典(まれすけ)将軍でした。
〇世界が称賛した人物
ロシアが二〇三高地に構えた要塞は、
ヨーロッパの最強の軍隊でも、
落とすのに3年は掛かると言われるもの。
これを日本は4ヶ月で落とします。
そして、
ロシアの将軍ステッセリを降参させ、
話し合いを進めました。
その時、普通であれば、
敗けた者達に武器を所持する資格は
ありません。
しかし、乃木希典は、
彼らから武器を取り上げませんでした。
更には、降伏したロシア人捕虜達に、
きちんとした食料を与えました。
この光景に世界の従軍記者達は驚愕。
捕虜を人間として扱ったのです。
この話は直ぐに世界中に広まり、
世界は彼を称賛しました。
また、母国で死刑宣告を受けた
ステッセリを助ける為、
乃木は助命を嘆願しています。
しかし、乃木自身は、
戦争で多くの犠牲者を出したことを
悔やんでいました。
彼は、死に場所を探していました。
止めたのは明治天皇。
明治天皇は、
「死にたいのなら、私が死んでから
自分で決めなさい。」
という命令を乃木に与えました。
その後、乃木は、
明治天皇の命令で学習院院長を務めます。
有名な教え子はというと、
なんと、昭和天皇でした。
昭和天皇曰く、
「自分の人格形成に、最も大きな影響を
与えた人物は乃木先生。」とのこと。
何でも、毎日送られてくる昭和天皇に、
徒歩で来なさい。と言ったそうです。
しかし、明治天皇が崩御すると、
彼は妻の静子と自殺しました。
この事件に世界が驚きました。
ただ、これが日本の軍人なのかと、
世界は乃木希典だけではなく、
日本を称賛するようになりました。
〇駄目な将軍説
これを提唱したのは、
有名な司馬遼太郎です。
日露戦争は、
多くの犠牲者を出してしまいました。
司馬遼太郎からしたら、
乃木希典は愚か者に映ったのでしょう。
活躍したのは乃木希典ではなく、
天才、児玉源太郎であった。
そんな感じですよね。
(実際、児玉源太郎は凄過ぎる人物
ですが…。)
しかし、上で述べているように、
世界が乃木希典を称賛している事実を
考えると、彼が駄目な将軍であった
ということは考えらないでしょう。
(まあ、死にたがりというのは、
少し問題があるようにも感じます。)
乃木の死を、
日本の美と称賛したのは、新渡戸稲造。
反対に、
やっていることが古いと非難したのは、
芥川龍之介、武者小路実篤、志賀直哉。
どちらが正しいかは分かりません。
繰り返しますが、
日露戦争での勝利が無かったなら、
現在の日本は無かったでしょう。
歴史的英雄だけではなく、
この時命を賭して戦った人々に対し、
私達はもっと深く感謝する必要が
あるのかも知れませんね。
いかがでしょうか。
残念ながら乃木希典は、
学校のテストはおろか、教科書にも
載っていません。
(資料集に、二〇三高地の内容が記載
されていたと思いますが…。)
よって、+αといった感じですね。
本来、まだまだ述べられる内容ですが、
今回はこの辺で。
このブログを読んで下さる方々に
最大の敬意を込めて。
あなたの生徒が輝く授業を
最大限していきましょう。
ありがとうございました。
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