【本当の寛容さとは…?それを見失った日本社会】
今回に関しては、モバイル対応など関係なく、
自分の思っていることをそのまま文章にしてみました。
この文章を必要としているかたに届けば良いと、ただそれだけで投稿します。
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ちょっと前、生徒と戦国時代についてのお話をしました。
きっかけは、文章を読むのが得意ではない生徒に、
『ノブーナガ』という本を読んでみようと提案したところ、
「歴史は学校で6年生の時に勉強するし、それに自分でも勉強している」という、
全く想像していなかったセリフをもらったことです。
上手くのせてあげるときちんと読んでくれましたが、
どうせだからその後、戦国時代に関するお話をしました。
「戦国時代だからって、戦ってばかりではなかったんだよ。」
「戦地になる場所の農作物は、事前に全て買い取っていたんだよ。」
そんなことを話すと、「聞いたことがない。」と、話をきちんと聞いてくれました。
それから、戦国時代の武士達に何故それ程野蛮なイメージがあるのか、
そんなお話をすると、「アメリカが嫌いになった。」という回答をいただきました。(笑)
彼はまだ小学校5年生なのですが、織田信長も豊臣秀吉も知っていました。
また、伊達政宗なども知っているようでした。
誰かが何かを言わなくても、自分の関心事はきちんと学ぶのだなぁと感心しました。
話を聞いていると、そこまで詳しく知っているわけではないようですが、
今後も自分の関心事を学んでいくことでしょう。
そこでふと思ったのは、学びの枠にみんなとらわれ過ぎているということです。
これは小学校6年生で学ぶとか、そういうことにとらわれ過ぎているように思います。
まあ、学ぶ順序というのはあるかも知れませんが、
自分で興味をもって学ぶのなら、その点はそれ程重要ではないハズです。
私は長いこと教育に携わってきて、発達段階などもきちんと考えるように
なってきたのですが、
織田信長は12才にならないと理解出来ない、そんな制限はないですよね。
そこから派生して感じたことなのですが、
私は、今回のタイトル通り、世の中が寛容さを失っているように思います。
なんでもかんでも、型にハメようとし過ぎに感じます。
これは、何でも容認するということではありません。
悪いことをしたクソガキ(笑)には叱るだろうし、
でもそんな子ども対しても、良いところはきちんと褒める。
良いところは褒めるし、悪いところは注意する。
私は、それが本当にその子を認めることだと思うのです。
いつもその子をきちんと見ている(ストーカーではないですよ💦)、
その子から決して逃げない(余程嫌いだったり、逆に嫌われているなら話は別かも知れませんが…)。
最近、叱るのが悪いことであるかのように言われています。
もちろん、理不尽に叱るのはどうかと思います。
しかし、例えば、明らかな授業妨害をしているような生徒に、
優しくものを言うのはどうでしょうか?
時と場合というのもあるのでしょうが、私は、これはどうかなと思っています。
それは、その子どもをある意味で腫れ物扱いしていると思うからです。
そういう子だって良いところがあるでしょう。
悪いことをしたら大人としてきちんと注意する、そして良い部分はきちんと褒める。
それで良いのではないでしょうか。
日本人は、良いものはもちろんですが、穢れや悪など、汚いものすら愛してきました。
日本神話などを見ればそうですが、日本の神様は意外にあくどいことをしています。
例えば、須佐之男命(スサノオノミコト)なんてもっての他ですよね。
でも、スサノオは八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を倒し、櫛名田比売(クシナダヒメ)を助けました。
良いところもあるんですね(下心もあるかもですが…)。
↓↓↓↓↓よろしければご覧下さい<(_ _)>
【日本神話を授業で教えましょう!その3 須佐之男命の八岐大蛇退治】
でも、現在の社会だったら、スサノオのような人物は
決して認められることがないように感じます。
きっと、発達障害だとか何とか言われたり、問題児扱いされるでしょう。
実際スサノオに関しては、オオゲツヒメノカミを殺したり、
問題は沢山あるんですけどね(;^_^A
何を言いたいのかというと、本当の寛容と言うのは、その人に寄り添うことなのではないでしょうか?
お互い人間です。良いところはあるし、正さねばならない悪い部分もあるでしょう。
それを分かっていて、なおその人と向き合う。そういう姿勢が大事なのではないでしょうか。
悪い部分が出ている時、人の本質というものが見えてきます。
大体の大人は口実をつけて逃げます。
そんなことを述べると、私の心が貧しいからそう見えるんだなどと言われそうですが、
人間、窮地に立たされた時に本質が見えるものです。
ですが、そんな時でも逃げない。己の信じる前を向き、どんと構えて真っすぐ生きていく。
必要とあらば、困っている当事者に寄り添う。摩擦も恐れない。
そんな姿勢が大事なのではないでしょうか。
そして、そこにはひと悶着などあるかも知れませんが、他者との確かなやり取りがあり、
そこで初めてお互いを理解し、寛容し合えるのではないでしょうか。
別に私だってどんな人間とも付き合うわけではありませんが、
自分の道にいる人間とは逃げずに懸命に向き合っています。
今回のテーマは「寛容」という言葉であり、
寛容とは、
①心が広くて、よく人の言動を受け入れること。
②他の罪や欠点などをきびしく責めないこと。
こういったことを指すようです。
ちょっと意味合いが違いますかね(;^_^A
私なりの寛容とは、どちらかというと「思いやり、受け入れる、寄り添う心」といったニュアンスのようです。
ですが今回は、自分なりの寛容というものを述べさせていただきました。
では、今回はこの辺で。
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